行基寺の沿革
山の開基は、今から約1300年前の天平時代に、木曽、長良、揖斐の三川が流れるこの美濃地方で起こった未曽有の大水害の惨状を目の当たりにした行基菩薩が、犠牲となった数多の人々の供養と、天神地祇の加護と、残された人々の安穏を念願し、霊験あらたかなこの御山に有縁無縁の萬霊塔と供養塔と仮堂を建立しました。
その後、聖武天皇の勅願をもって、伊勢、尾張、美濃の三国の守護霊場地として七堂伽藍が創建されたことによります。
当山内の行基塚には板碑(重要文化財)があり、天平時代に建立された萬霊塔(七重の石塔:重要文化財)が今も残っています。
天平の末期から足利時代までの600年間は、この比類なき霊場地は濃尾の人々から『西山の極楽』と讃えられ、各宗の祖師や高僧をはじめ、数多くの人々が御利益と功徳を求め、参詣や参籠のために足を運んだと伝えられています。
東山天皇の元禄年間(約300年前)、尾張藩二代藩主徳川光友公の次男である松平義行公(徳川家康公の曾孫)が、美濃高須藩の藩主として封ぜられるにあたり、当山を松平家の菩提寺として境内および全伽藍を城郭に見立てて改築し、宝永二年(1705年)に完成しました。
その後、行基寺は明治維新に至る160年間は一般庶民の登山参詣は禁止されていました。今もなお、松平公ご使用のお駕籠、調度品等々がそのまま残っており、中でも当時使用されていた約2m大の櫓時計は今も時を伝えています。
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板碑 (現在は公開致しておりません)
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七重塔
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櫓時計